なにか・・・、理不尽なことだと思う




悲惨なのは子供を愛する能力がない親が、子供を親代わりにすることです。
親が子供に向かって「親の無条件の愛情」を求めることです。
親子の役割逆転です。


このような親はもちろん神経症です。
そこで神経症的愛情要求の恐ろしさがいかんなく発揮されます。
親が子供に、暗黙のうちに自発的に親の犠牲になることを求めます。


最も優しい子供に愛情を求め、その子供を“母親”にします。
そして子供を所有しようとし、執着します。
本人は子供への執着の激しさを愛情の激しさと錯覚しています。
だから、子供がノイローゼになり、父親の思いどおりにならなくなると、
今度は父親は反抗期の子供のように、自分の子供に対して憎しみを向けだします。


自分を賞賛しなくなった子供、
自分以外の人にも注意を向けるようになった子供、
そして不眠症になったり、倒れたりする子供。


愛を求めていた子供が、自分が求めているほどの愛を与えなくなったから、親は憎しみを持ちだしました。
親は子供に、愛や賞賛や承認を求めました。

自分の親から与えられなかったそれらを親は必要としていました。
それを与えなかった子供を憎みました。
しかし本人は子供を熱愛しているつもりです。


役割逆転の親は、子供が自分のことをほんの少しでも批判しようものなら、
烈火(れっか)のごとく怒ります。
そして子供を憎みます。

それは、親はその批判のささいな言葉さえ、
子供が自分を愛してはいない証拠として受け取るからです。


依存心の強い親は子供が自律心をもちだすと、「あの子は冷たくなった」と解釈します。
けっして「あの子も立派に成長してきた」とは思いません。
依存心の強い親ほど、子供の精神的成長を恐れます。


子供が自己主張するだけのことで時に修羅場となります。
子供が自分の行動の判断を自分でしはじめた時、依存心の強い親はヒステリーをおこします。
甘えた親ほど、子供に依存しつつ、子供を支配しようとしていますから、
自分の支配に反逆されれば(子供が自分のいいなりにならなければ)怒り狂います。


自分に都合のよい存在でなくなったとたん、あからさまに敵意を示す人、
非難罵倒(ひなんばとう)する人、
あるいは、しつこく昔の人間にひきもどそうとする人。

親の一変した姿こそ、今までの愛が本当は子供のための愛ではなく、
自己愛のための対象愛にすぎなかったことをあらわしています。



子供は、親の醜悪(しゅうあく)な姿を見た時、
自分はこれほど自己中心的な醜悪な人間を恐れて
自分をいつわってきたのだと知って、ぼうぜんとします。



そしてその瞬間、さわやかな自信が身体の中に生まれます。
もはや、自分をいつわる内的必然性がなくなったからです。


甘えた親は、子供が自分の支配に服する限り、子供を愛していたにすぎません。
自分の価値を子供に認めてもらいたかったのですが、これをはじめて子供が拒否しました。
そこで一転して憎しみに変わったのです。


愛が憎しみに変わったというよりも、
子供への心理的依存が満たされず、憎しみをもったということです。


依存心の強い支配的な親に育てられた子供は、心理的に親にとりこまれています。
親が心理的に子供に依存していますが、子供も親に依存しています。


こんな時、親の自己中心的な期待を裏切って、
自分の望みに目覚めて行動することは、真の戦いです。


自分の側にある親への依存心を切り捨てない限り、親の支配欲にたちうちできません。
この戦いを”親孝行”という美名のもとに避ける子供は、永遠に自信をもつことはできません。
永遠に自分の中に依存心を残し、屈折した感情で生きるしかありません。


参考 
『他人と上手くつきあえない人「きずな喪失症候群」という病』
 加藤諦三 PHP研究所
『自信』 加藤諦三 三笠書房

http://morahara.nukenin.jp/index.htm (HP)
http://morahara.nukenin.jp/99kinouhuzen/kodomonojiritusinniokoruoya.htm より抜粋