打ち明けて語りて




打ち明けて語りて

     

     打明けて語りて

     何か損をせしごとく思ひて

     友とわかれぬ

           


                 石川啄木『一握の砂』




<解釈>  『一握の砂』を朝日文庫版で読む 近藤典彦より抜粋


友と話しをしているうちに
自分のとっておきの秘め事を無性に「打明けて語り」たくなった。

ところがしゃべっていると
相手が期待したほどの理解も共鳴もしてくれないのに気づく。


この友にはしゃべるんじゃなかったとほぞをかむ。
もうおそい。
語り終えて後、
大切なものを失ったような索漠とした思いになって、別れたのだった。


「打明ける」とは「心に秘めていたことを隠さずに話す」こと。


したがって「打明け」るときは、相手(この場合は「友」)の中に
自分の秘め事に理解を示し共鳴してくれる心
=自分と共通する心があることを信じているわけです。


つづめていえば相手の中に自分(それもとっておきの自分)を見ていると言うことです。



「損」をしたように思ったのは、
その秘め事が自分にとっては大切な、価値のある事柄だったからです。
それはたとえば、夢とか文学上・思想上の構想とかといったものと思われます。



わたくしの若いころにはこういうことは少なからずありました。
だからこの歌は若いころから印象に残っている歌です。
同様のことは今もなくはありません。


ああ、この人にはこんな大切なこと話すんじゃなかった、
という思いは万人が経験しているのではないでしょうか。





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相手は友とは限らず、
日常生活の中で、いつも身近に感じる人々の場合もある。
肉親かもしれないし、
夫や妻の場合もあるでしょう。




渡辺和子さんの著書にも、
この「一握の砂」を紹介しながら、こんな言葉が書かれていました。



他人から誤解されたり、ありもしない悪口をいわれたり、
そういうことを人伝てに 聞かされて落ち込むこともあります。


心に受けたこういう傷はなかなか癒されなくて、辛いものです。
そんな時は、誰かに「辛い」と打ち明けることで
心の重荷が半分ぐらい軽くなることがあります。


でも、信頼できる相手でないと、
打ち明けたことを後悔することもあると、知っておいた方がよいでしょう。






さらに孤独についても・・・・・・



幼い時、母は「他人さまを当てにしてはいけない。
結局、皆自分が可愛いのだから」と、
ことあるごとに私たち子どもにいいきかせて、
生きていく上での厳しさを教えてくれました。


このことが、その後の人生で味わうことになった孤独を受け入れ、
孤独に耐えるために、大そう有り難かったと思っています。
 

かくて私は、他人に100パセント理解してもらえるなど夢にも思わず、
他人を100パセント理解し、知り尽くせると思わなくなりました。


これは淋しいことです。
特に愛する相手を知り尽くしたいと思うのは人の常ですから。
しかし同時に、
人間は本質的に一人ひとり裸で生まれた別人格であるということを忘れず、
その孤独に耐える時、人間は成長します。
 

私たちは、愛する者を持っていない淋しさも味わいますが、
反対に、愛する者を持ってしまったがゆえに味わわねばならない淋しさ、孤独もあるのです。
それに耐えるのも愛の一つの姿だと知りましょう。
 
「淋しさは愛するためにある」。
私の好きな言葉の一つです。




”かくて私は、他人に100パセント理解してもらえるなど夢にも思わず、
他人を100パセント理解し、知り尽くせると思わなくなりました。”


淋しい言葉ですけれど、これが真実なのでしょう。